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写真で見る愛知教育大学?附属学校園の軌跡

沿革略図

沿革略図
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沿革

師範学校?大学

第一師範学校

愛知県第一師範学校の正門

明治32年、愛知県師範学校は「愛知県第一師範学校」と改称された

愛知県第一師範学校の教職員(大正7年頃)

明治32年4月に「愛知県第一師範学校規程」が制定され、同年6月には校長に三浦渡世平が就任した。当時の教職員は校長のほか、教諭9名、助教諭3名、訓導14名、嘱託教員7名、合計34名で構成された

本科第二部の生徒たち(大正7年頃)

明治40年「師範学校規程」により、本科第一部(修業年限4年)と本科第二部(修業年限1年または2年)が設置された

教生室での様子(昭和9年頃)

明治41年「愛知県師範学校学則」によると、本科第一部生の教育実習は第4学年に毎週9時間を課すこととなっており、本科第二部生は教育学に重点を置いたカリキュラムが組まれ、教育実習は毎週8時間が課された

愛知県第一師範学校の教職員(昭和13年頃)

昭和初期の愛知県第一師範学校および附属小学校では、新教育運動の影響を受け、郷土の地理や歴史を出発点とし、当時の経済不況にあえぐ農村の自力更生運動などと関連させた郷土教育が盛んに取り組まれた

軍事講習の様子(昭和9年頃)

昭和12年の日中戦争以後、師範学校における教育や学校行事等に戦時体制色がしだいに強化されていった

角力部(昭和11年頃)

全寮制が敷かれ、朝は6時に起床、清掃をしたのち午前?午後の授業を受け、曜日によっては運動や外出、自習時間等を経て、夜9時半に消灯という規則正しい生活を送った

ペスタロッチー記念会の開催

第1回ペスタロッチ記念会は、明治40年1月12日に開催された。以後、毎年1回ずつ継続され、明治44年の第5回からは講演を教諭だけでなく師範学校生徒も行うようになった

図書部(昭和14年頃)

書棚は、現在附属図書館3階の大学史資料室?展示室に現物が展示されている。附属図書館の開館中(平日は17時まで)であれば、誰でも無料で関係資料とともに本学の歴史的変遷を視覚的に楽しむことができます

専攻科の設置

大正15年、愛知県第一師範学校では修業年限1年の「専攻科」を設置し、ほかに愛知県第二師範学校および愛知県女子師範学校にも1学級ずつ設置した

1873(明治6)年に「愛知県養成学校」が、翌年には岡崎の旧額田県庁跡に「養成学校別校」が設置された。その後、全国的な法制度の改正等にあわせ、愛知県師範学校(明治9年)、愛知県尋常師範学校(明治19年)等に名称を変更し、1899(明治32)年には「愛知県第一師範学校」が設置された。

1943(昭和18)年には、愛知県女子師範学校と統合し、官立の「愛知第一師範学校」となった。

女子師範学校

愛知県女子師範学校の設置に向けて

明治33年、愛知県第二師範学校に女子部を設置した。この女子部を同校から分離し、明治45年から愛知県女子師範学校を設置することとなった

愛知県女子師範学校の正門

明治45年、愛知県女子師範学校が設置され、千葉県女子師範学校長だった郷野基厚が校長に着任し、同年3月に「愛知県女子師範学校学則」が制定された

愛知県女子師範学校の校舎

大正4年には愛知県立第二高等女学校が併設され、正門には二つの校名が掲げられた

愛知県女子師範学校の講堂にて

校訓は「至誠」。「道徳教育即教育の根本信条に立つ故に教育運営は至誠を以て一貫、師弟間の誠実な人格的交流によって純良な校風を樹立する」ことが目指された

教育実習生(昭和8年頃)

愛知県女子師範学校には、本科第一部(修業年限4年、定員40名)、本科第二部(修業年限1年、定員40名)、第二種講習科(修業年限2年、定員40名)が設置された

郷土史料展の様子

愛知県女子師範学校では明治後期から郷土教育実践を開始し、その研究成果は『郷土研究紀要』等にまとめられた

愛知県女子師範学校の教職員(昭和15年頃)

昭和10年、愛知県女子師範学校附属小学校を中心に「中部日本映画教育研究会」が発足し、映画を学校教育の場に導入し教育効果を高めるための教育?研究活動に重点が置れた

附属小学校の教室(昭和12年)

大正12年に附属小学校が創設され、郷土教育に関する教育?研究活動に重点が置かれた

附属小学校尋常科(昭和2年)

愛知県女子師範学校創設時は、榎尋常小学校を代用附属小学校としてスタートした

附属小学校の運動会(昭和12年)

大正10年に第1回初等教育研究発表会を開催。昭和5年には第1回映画教育研究会を開催し、以後毎年1回ずつ全校を公開し研究会を積み重ねていった

1912(明治45)年、愛知県第二師範学校に設置されていた女子部を分離し、「愛知県女子師範学校」が設置された。1915(大正4)年には愛知県立第二高等女学校が併設され、正門には二つの校名が掲げられ、校舎や運動場などの学校施設だけでなく、さまざまな教育活動を共有して過ごした。

1943(昭和18)年、愛知県第一師範学校と統合し、官立の「愛知第一師範学校」となった。

第二師範学校

愛知県第二師範学校の正門

明治32年、額田郡岡崎町に「愛知県第二師範学校」が創設された

第1回卒業生(明治36年)

愛知県第二師範学校には女子部が設置され、当時愛知県内で唯一、女性の小学校教員を養成する拠点となった

第1回甲種講習科卒業生(明治34年)

愛知県第二師範学校には小学校教員講習科(甲種講習科、乙種講習科、のちに特別講習科等)が設置され、現職教育と臨時の小学校教員養成が実施された

愛知県岡崎師範学校の正門

大正12年、愛知県第二師範学校は「愛知県岡崎師範学校」に校名を変更した

愛知県岡崎師範学校本科第一部の生徒たち(大正13年頃)

当時、本科1学年あたりの生徒数は約30名?40名(大正期は約80名)で少人数の指導体制がとられていた

音楽教室での授業風景(大正13年頃)

師範学校の授業は、始業が8:10、終業が14:50、1日あたり6時間授業で、土曜日は4時間授業だった。教室は学科別で、専攻科だけ専攻科教室が設けられていた

軍事講習(昭和12年)

昭和期に入ると、師範学校における教練は、配属将校や予備役歩兵特務曹長が担当し、夏季休暇中に1週間から3週間にわたって軍事講習が実施された

愛知県岡崎師範学校の教職員(昭和12年)

大正期に全国的に注目を集めた生活教育は、昭和期に入ると「生活課程」の設置へと発展し、昭和10年には『生活教育の実践』(東洋図書)として教育?研究成果がまとめられた

修学旅行(昭和12年)

昭和16年の第二次世界大戦後、教育者の育成により一層力が注がれるようになり、県立師範学校の官立専門学校への昇格が促進された

愛知第二師範学校の正門

昭和18年、愛知県岡崎師範学校は官立に移管され、「愛知第二師範学校」となった。同校には男子部だけで女子部が設置されなかったことから、愛知県岡崎師範学校の同窓会を中心に女子部設置運動が展開され、昭和19年に女子部が設置された

1899(明治32)年、額田郡岡崎町に「愛知県第二師範学校」が設置され、本科、簡易科、小学校教員講習科、女子部が設置された。女子部は1912(明治45)年に分離し、愛知県女子師範学校となった。

1923(大正12)年に学則が改正され、「愛知県岡崎師範学校」と改称された。

1943(昭和18)年に官立に移管され、「愛知第二師範学校」となった。

青年師範学校

愛知県実業教員養成所の教職員と生徒たち(昭和6年頃)

大正7年に「愛知県農業補習学校教員養成所」が設置され、実業補習学校の教員養成に着手した。大正10年、同校は「愛知県実業教員養成所」と改称され、所長に大森謹平が就任した

授業の様子(昭和6年頃)

愛知県実業教員養成所では、「農業補習学校教員タル者ニ須要ナル智識技能」を学び、とくに農業の理論と教授法に重点が置かれた

授業の様子(昭和6年頃)

大正10年に「愛知県実業教員養成所学則」が制定され、修業年限は1年、学科目は修身、教育、農業、法制及経済、国語及漢文、英語(随意)、体操と定められた

愛知県実業教員養成所の教職員たち(昭和6年頃)

大正11年に「愛知県実業教員養成所学則」が改正、修業年限が2年に延長され、学科目は修身、教育、国語、数学、化学、農芸物理、土壌肥料、農業土木、園芸、畜産、水産、農業最近、林学等、広範な領域に拡大された

授業の様子(昭和6年頃)

師範学校卒の現職教員が入学した場合は、在職年数を継続通算し、学資の補助をし、人物考査だけで無試験で入所させた

実業補習学校の教員養成を目的として、1918(大正7)年に「愛知県農業補習学校教員養成所」が設置された。1921(大正10)年には「愛知県実業教員養成所」と改称され、「農業補習学校教員タル者ニ須要ナル智識技能」を学び、とくに農業の理論と教授法の習得に重点が置かれた。

1935(昭和10)年には「愛知県立青年学校教員養成所」と改称され、続いて1944(昭和19)年には官立に移管され、「愛知青年師範学校」となった。

愛知学芸大学

愛知学芸大学の発足

昭和23年、「愛知学芸大学設置申請書」を文部省に提出した。翌年5月31日、愛知学芸大学学芸学部が発足した

愛知学芸大学創設初期の卒業写真(1950年代)

愛知学芸大学発足にともない、名古屋分校(前期2年課程、定員720名)、豊川分校(前期2年課程、定員540名)、安城分校(前期2年課程、定員240名)が設置された

愛知学芸大学創設初期の卒業写真(1950年代)

戦後復興やベビーブームにともなう大量の教員需要に対応するため、臨時的措置として2年課程(前期課程)が設置された。昭和26年度の610名をピークとして以後縮小し、昭和36年度に廃止された

大学本部の設置

愛知学芸大学発足直後から、「大学本部」と「後期課程」を名古屋あるいは岡崎のどちらに置くべきかという問題(いわゆる「学大問題」)が発生した

名古屋分校校舎

終戦後の教員不足に対応するため、各分校には前期課程(2年課程)が設置され、2級免許状が取得できた

名古屋分校の教職員(昭和45年)

名古屋地区への後期課程?大学本部の誘致運動が展開されたが、昭和45年度末をもって刈谷市へ統合移転された

「学報」No.1(昭和29年)

「大学の民主化を徹底し、事務連絡の円滑を期する」ために、「学報」が毎月1回発行された

愛知学芸大学関係施設配置図

名古屋?春日井?安城?岡崎?豊川など県内各地に関係施設が整備されていた

大学本部の新設(昭和25年頃)

候補地として、岡崎?名古屋?春日井?大府?安城?豊川などがあがったが、最終的に岡崎市明大寺地区(現在:名鉄東岡崎駅南側)に置かれた

「愛知学芸大学新聞」第48号(昭和40年11月25日付)

昭和40年の教授会において、名古屋分校?岡崎分校を離れて、第三の土地への集結を決議し、翌年には刈谷市井ケ谷地区への統合移転が決定された

愛知第一師範学校、愛知第二師範学校、愛知青年師範学校を母体とし、1949(昭和24)年5月31日に「愛知学芸大学学芸学部」が発足した。旧師範学校地に分校(名古屋分校、豊川分校、安城分校)が設置され、このほかに「大学本部」が新設された。発足当初は、戦後復興やベビーブームにともなう大量の教員需要に対応するため、臨時的措置として2年課程(前期課程)が各分校に設置された。

この「大学本部」(後期2年課程を含む)をどこに置くべきかという問題(いわゆる「学大問題」)が発生した。その後、約20年間にわたるさまざまな経緯を乗り越え、1965(昭和40)年6月19日に開催された教授会において「本学の学部の全施設を一か所に集結する」ことが決議された。

愛知教育大学

新キャンパス(刈谷市)の建設が進む

昭和40年に刈谷市井ケ谷地区への統合移転が決議。翌昭和41年4月1日には、愛知学芸大学学芸学部から「愛知教育大学教育学部」へと名称が変更された

統合起工祝賀会

昭和43年3月14日、統合記念式典が開催された(写真は祝賀会で挨拶をする第4代?伊藤郷平学長)

工事中の第一人文棟?第一共通棟

大学建設にともない、井ケ谷古窯跡群(刈谷市指定史跡)の破壊が免れないことが判明し、史学教室が発掘調査を実施した

基礎工事中の自然科学棟、完成前の第一共通棟、第一人文棟

統合移転後、特別教科教員養成課程(理科、数学)が設置され、東海地区における理数系教員養成の拠点となった

統合記念式の挙行(昭和46年)

昭和45年2月から刈谷市井ケ谷地区への統合移転作業が開始。同年4月からは新しいキャンパスでの生活がスタートした

統合記念式の挙行(昭和46年)

昭和46年3月16日、本学関係者等約400名を招待し、統合記念式典が挙行された

1980年代の第一福利施設

最寄駅から遠いことから、自家用車で通学する学生が多いことが本学の特徴の一つ。刈谷市へ移転直後から、学内の交通事故や自家用車の交通ルールが問題となった

1980年代の第二福利施設?保健管理センター

第二福利施設2階のバルコニーは、夏の数日間限定でビアガーデンとなり、多くの教職員?学生たちの喉を潤したという

第1回 愛教大祭のテーマ(昭和45年)

昭和45年11月、第1回愛教大祭が開催された。第1回のテーマは「歩き出せ70年代にふさわしく」で、外部講師による講演会や学生が主体となって多彩な企画が立てられていた

総合科学課程発足10周年記念講演会(平成9年)

昭和62年、小学校教員養成課程から定員395名を移し、教員免許状取得を卒業要件としない総合科学課程が設置された

1965(昭和40)年、東北大学教育学部から教員養成課程が分離独立し、宮城教育大学が発足した。翌年、「国立学校設置法の一部を改正する法律」および「国立大学の学科及び課程並びに講座及び学科目に関する省令」により、愛知学芸大学学芸学部は「愛知教育大学教育学部」へと名称が変更された。 1966(昭和41)年の臨時教授会において、統合移転の場所を現在の刈谷市井ケ谷地区とすることが決議され、1970(昭和45)年から移転作業が開始、同年4月1日から新キャンパスでの生活がスタートした。1971(昭和46)年3月16日には、統合記念式典が挙行された。

刈谷市へ統合移転後は、多様な教員養成課程(幼稚園教員養成課程、特別教科教員養成課程等)を一体的に保持し、東海地区における教員養成センターとしての機能強化が進められた。

その後も、1978(昭和53)年に大学院教育学研究科(修士課程)が設置、1987(昭和62)年に総合科学課程が設置、2004(平成16)年には「国立大学法人愛知教育大学」が発足するなど、各時代の教員養成政策に対応しつつ、東海地区を中心に多くの教員を輩出してきた。

附属学校園

附属幼稚園

附属幼稚園

終戦直後の集合写真(1946(昭和21)年頃)

附属幼稚園は、1925(大正14)年に愛知県女子師範学校附属幼稚園として創設された

発表会の様子(1946(昭和21)年頃)

戦時中は一時閉園。1946(昭和21)年に愛知第一師範学校の校舎の一部を借りて復活開園した

第20回全国幼稚園施設研究大会(1971(昭和46)年)

1951(昭和26)年4月、愛知学芸大学附属幼稚園と改称、1953(昭和28)年には現在地に新園舎が完成した

運動会の様子(1971(昭和46)年頃)

1966(昭和41)年4月、愛知教育大学附属幼稚園と改称した。

第20回全国幼稚園施設研究大会(1971(昭和46)年)

戦中および終戦直後の混乱期を経て、1950年代後半から本格的に研究活動が盛んに行われた

園舎竣工?創立50周年記念式典

1976(昭和51)年9月28日、創立50周年記念式典を挙行した

愛知学芸大学附属幼稚園の教職員

創設当初は附属小学校兼主事1名、教官2名による2学級編成(1学級あたり25名、合計50名)だったが、戦後はしだいに入園者数が増加し、昭和48年度から3年保育課程が新設され、定員は合計120名となった

昭和50年頃の園舎

当時の園舎は「木造建であるが、開放的で園児がのびのびと遊べるよい構造である。また園庭の樹木、芝生もりっぱで、緑が多く大都市の幼稚園としては、うらやましいほどよい環境にある」と評価された

昭和50年頃の園庭

園庭の先には愛知学芸大学名古屋分校の校舎が見える

1925(大正14)年、愛知県女子師範学校附属幼稚園が創設された。戦時中は一時閉園されたが、1946(昭和21)年に官立愛知第一師範学校女子部附属幼稚園として再開された。

1949(昭和24)年に愛知学芸大学附属幼稚園と改称、1953(昭和28)年には現在地に新園舎が完成した。その後、愛知学芸大学附属幼稚園、愛知教育大学附属幼稚園と改称した。

一人ひとりを大切にする保育環境のなかで、自然や社会とかかわりながら生きていくための基礎的な力を育み、人格形成の基礎を培う幼児教育を追究し、保育者を目指す学生たちへの指導をはじめ、公開保育や大学との共同研究、地域の研修会等を実施している。

附属名古屋小学校

附属名古屋小学校

愛知県第一師範学校附属小学校時代の校舎(1926(昭和元)年頃)

1875(明治8)年7月、愛知県養成学校附属小学校が創設された(名古屋久屋町)

愛知県第一師範学校附属小学校の教職員(1926(昭和元)年頃)

大正期から昭和初期にかけて郷土教育に関する教育?研究が盛んに行われ、充実した施設設備、各種学校行事の実施、研究成果物の出版等、幅広い成果をあげ注目を集めた

愛知学芸大学附属名古屋小学校時代の校舎(1955(昭和30)年頃)

1952(昭和27)年に現在の名古屋市東区大幸町に移転、翌年には附属春日井小学校を合併し、愛知学芸大学附属名古屋小学校と改称した

1970年代の授業風景

AV室で、当時最先端の情報機器を用いた学習風景

1970年代の授業風景

1974(昭和49)年11月、開学百年祭を挙行した

1990年代の校舎全景

「みんながわくわく学べる学校」の実現を目指し、隣接する附属幼稚園?附属名古屋中学校と連携した教育?研究活動を推進している

1875(明治8)年、愛知県養成学校附属小学校が創設された。大正期から昭和初期にかけて、郷土教育に関する教育?研究が盛んに行われ、その教育実践や研究活動は全国的に注目された。1923(大正12)年には愛知県女子師範学校附属小学校が設置された。

1953(昭和28)年、これらの小学校を合併し、愛知学芸大学附属名古屋小学校と改称した。1961(昭和36)年に校歌「ぼくもわたしも」を制定、1974(昭和49)年には開学百年祭を挙行した。隣接する附属幼稚園?附属名古屋中学校と連携した教育活動や、大学教員との共同研究等、先進的な教育?研究活動を推進している。

附属岡崎小学校

附属岡崎小学校

終戦直後の校舎全景(昭和26年頃)

明治34年4月、愛知県第二師範学校附属小学校が開校した

戦時中の卒業写真

大正12年、愛知県岡崎師範学校附属小学校と改称。生活教育に関する研究成果として『体験生活深化の真教育』(大正15年)や『生活教育の実践』(昭和10年)等を出版した

学校議会

昭和26年4月1日、愛知学芸大学の発足にともない、愛知学芸大学附属岡崎小学校と改称された。同年11月には岡崎市伊賀町愛宕山に移転した

1950年代の在校生

昭和32年4月、校則第22条に児童の服装に関する規定を設け、制服が制定された。写真は、制服が制定される前に撮影された集合写真と思われ、制服と私服の児童が混在している

1950年代の校舎

昭和39年1月、新校舎が竣工し待望の理科室、音楽室、家庭科室、特殊学級教室、体育館等が整備された。学芸会は新しく広々とした体育館で開催された

北庭で(昭和35年頃)

昭和36年2月、校訓「本氣デアレ キマリヨクセヨ ヤッカイニナルナ タメニナルコトヲセヨ」が刻まれた校訓碑が北庭に建立された

生活教育研究協議会

昭和23年11月、第1回生活教育研究協議会を開催し、『生活教育研究』第1集を刊行した

正門(昭和35年頃)

昭和37年から昭和42年まで特殊学級を開設し、附属養護学校の母体となった

グラウンドにて(昭和55年頃)

昭和41年4月、愛知教育大学附属岡崎小学校と改称した

1980年代の校舎全景

昭和55年にあおいホール、音楽室、理科室等の新館が竣工、昭和56年度はロータリー造成とブロンズ像の設置、昭和58年には新校舎(普通教室、給食室等)が竣工した。グランドを挟んで右側の校舎は附属養護学校

1901(明治34)年、愛知県第二師範学校附属小学校が創設された。1923(大正12)年には愛知県岡崎師範学校附属小学校と改称、翌年には文集『ひばり』を創刊した。

1951(昭和26)年に愛知学芸大学附属岡崎小学校、1966(昭和41)年に愛知教育大学附属岡崎小学校と改称した。2001(平成13)年には創立100周年記念式典を挙行した。

1948(昭和23)年に第1回生活教育研究協議会を開催し、子どもが主役の学校、子どもたちの生き生きとした姿、仲間とかかわり合う生活をとおして自らの学びを深めていく姿を追究している。

附属名古屋中学校

附属名古屋中学校

愛知学芸大学附属名古屋中学校時代の正門(1954(昭和29)年頃)

1947(昭和22)年4月、愛知第一師範学校男子部附属中学校(名古屋市)および同女子部附属中学校(春日井市)が創設された

友人たちとともに(1955(昭和30)年頃)

1951(昭和26)年4月、愛知学芸大学附属名古屋中学校と改称、1954(昭和29)年には現在の名古屋市東区大幸町に移転した

1960年代の校舎全景

1950(昭和25)年6月に第1回新教育研究発表会が開催され、1953(昭和28)年には『教育実践』第1集が刊行された

1960年代の授業風景(1967(昭和42)年頃)

1960年代は共同研究体制強化、新しい教育目標、校章、校旗、校歌の制定など大きな改革が続いた

合唱祭(2007(平成19)年)

附属名古屋中学校では、クラスマッチや宿泊行事等の学校行事が教育活動の核とされた

1947(昭和22)年、愛知第一師範学校男子部附属中学校(名古屋市東区)と同女子部附属中学校(春日井市)が創設された。翌年4月に、これらの学校を合併し、愛知第一師範学校附属中学校と改称した。

1951(昭和26)年に愛知学芸大学附属名古屋中学校、1966(昭和41)年には愛知教育大学附属名古屋中学校と改称した。1950(昭和25)年に第1回教育研究発表会を開催し、1953(昭和28)年には研究紀要『教育実践』第1集を発行した。「行事を核にした教育活動」に重点的に取り組んでおり、集団とのかかわりをとおして、生徒各自が個性を発揮しながらお互いの価値観を理解?共有し合うことを目指している。

附属岡崎中学校

附属岡崎中学校

愛知学芸大学附属岡崎中学校時代の校舎(昭和27年頃)

昭和22年4月、愛知第二師範学校附属中学校が創設された

卒業写真(昭和27年頃)

昭和24年5月には、愛知学芸大学附属中学校と改称された。当時は岡崎市六供町に校舎があった

Students Association(昭和28年頃)

昭和28年には附属安城中学校を統合、昭和31年には現在地(岡崎市明大寺町)に移転した

モータークラブ(昭和29年頃)

昭和39年には特殊学級を開設し、昭和42年の附属養護学校の母体となった

完成した育朋館(昭和31年度頃)

昭和31年12月13日、待望の体育館兼講堂=育朋館が完成し、研究発表会等の多人数を収容できる施設が整備された。「互いの切磋琢磨によって朋(とも)を育てよう」という意味が込められた

明大寺地区の校舎全景

昭和36年7月、木造平屋建てだった校舎(旧三島小学校)の取り壊しが始まった。新校舎は翌昭和37年2月に普通教室等が完成。鉄筋3階建、ガス暖房完備、五つの普通教室が1階から3階まで並び、南側には廊下が配置された

生活教育研究協議会

第1回生活教育研究協議会は、昭和24年11月に開催され、『生活教育研究』第1集が刊行された

創立50周年記念式典

平成9年11月9日、育朋館において創立50周年記念式典?祝賀会が開催された

1947(昭和22)年、愛知第二師範学校附属岡崎中学校が創設された。1949(昭和24)年に愛知学芸大学附属岡崎中学校と改称、1953(昭和28)年には附属安城中学校を統合した。1966(昭和41)年に愛知教育大学附属岡崎中学校と改称され、現在にいたる。

1949(昭和24)年に第1回生活教育研究協議会が開催され、『生活教育研究』第1集が刊行。主体的な学びを引き出す問題解決的学習過程において独自性を発揮しながら追究し、他者とともに新たな価値を生み出す子どもの育成を目指した授業に取り組んでいる。

附属高等学校

附属高等学校

第Ⅰ期工事竣工記念式典(昭和49年10月8日)

昭和48年4月に開校したが、校舎は愛知教育大学の一部を借りて授業を開始した

校舎全景(昭和51年頃)

昭和49年に新校舎の一部が完成し移転を開始、翌年3月にようやく新校舎が完成した

知立駅前、名鉄バスに乗り込む学生?生徒たち

名鉄知立駅からバスに乗って通学する高校生の乗車マナーが問題となり、改善に向けた取り組みが話し合われた

大学前、バスから降りて歩く高校生たち

愛知教育大学に隣接する環境を生かし、大学との連携による教育?研究活動が進められた

完成したばかりの校内にて

創設時(昭和48年4月)は隣接する愛知教育大学の施設を借りてスタートし、翌昭和49年度末にようやく校舎が完成し、新しい施設での高校生活がはじまった

昭和48年度の入学式

附属高校創設時は、愛知教育大学の体育館で入学式が行われた

昭和48年度の入学式

制服がまだ制定されていないため、入学式には卒業した中学校の制服で入学式に臨んだ。制服が制定されたのは、半年後の10月のことだった

高校教育シンポジウム

昭和51年1月、第1回高校教育シンポジウムが「学校づくりの新しいあり方を探る」をメインテーマに開催された

建国大学校師範大学附属高等学校との交流

昭和63年3月、第1回韓国修学旅行を実施、日韓合同合唱等を通じて交流会を継続している

附高体操(昭和50年頃)

「すべて借り物の生活の中で、何か我々自身のより所になるもの、それを我々の手で創りあげようと考え」附高体操が創作された

創立10周年式典

昭和57年11月5日、創立10周年記念式典が挙行された

創立30周年を記念した30キロハイク(平成14年頃)

創立30周年を記念して、30キロハイクを開催した

1973(昭和48)年、愛知教育大学附属高等学校が創設された。創設当初は、愛知教育大学の建物の一部を借りて授業が開始された。1975(昭和50)年には「すべて借り物の生活の中で、何か我々自身のより所になるもの、それを我々の手で創りあげようと考え」附高体操が創作され、翌年には「学校づくりの新しいあり方を探る」をメインテーマに第1回高等教育シンポジウムが開催された。

附属特別支援学校

附属特別支援学校

附属養護学校開校式

昭和42年11月21日、児童?生徒、保護者、教職員等約170名が参加し、開校記念式が挙行された

創設期の校舎

全国で8校目の国立大学附属養護学校として、障害児教育?研究の拠点となった

「卒業生父母の会」の様子

昭和43年から、卒業生の保護者と現?旧教職員が集い、卒業生の予後指導を行うことを目的にはじめられた

登下校の様子

昭和43年8月からスクールバスの運転が開始された

特殊教育研究協議会

特殊教育研究協議会は、昭和43年の創設以来、毎年積み重ねられている。同年には『研究紀要』第1集が刊行された

創立20周年記念(昭和61年度)

昭和42年に開校後、昭和44年度に新校舎が竣工、昭和51年度は体育館、、昭和53年度は飼育舎、昭和56年度には附属岡崎小学校との境界フェンスを撤去、昭和57年度は動物園が開設されるなど、施設の整備が進められた

しあわせの門(この門の向こうにしあわせの道がある)

しあわせの門碑は昭和53年に設置、創立50周年に改修された

1960年代、愛知学芸大学附属岡崎小学校と同附属岡崎中学校に特殊学級が設置された。これらの学級における教育?研究活動を引き継ぎ、1967(昭和42)年に愛知教育大学附属養護学校が開校した。同年には父母教師会が結成、第1回特殊教育研究協議会を開催し『研究紀要』第1集が刊行された。

1972(昭和47)年には学校文集『くすの木』が創刊、1978(昭和53)年には「しあわせの門碑」が完成、1980(昭和55)年には附養文化祭が開催された。

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