HISTORY愛知教育大学150年のあゆみ
愛知教育大学の嚆矢は、1873(明治6)年に創設された愛知県養成学校まで遡ることができる。
それから150年という長い星霜を積み重ね、今日にいたっている。
その後、名称変更を重ねながら組織等を拡大?発展させ、1944(昭和19)年には三つの師範学校(官立愛知第一師範学校=名古屋、官立愛知第二師範学校=岡崎、官立愛知青年師範学校=安城)へと集約され、戦後の愛知学芸大学の母体となった。
1949(昭和24)年5月31日に愛知学芸大学学芸学部が発足した。愛知学芸大学には、旧師範学校が設置されていた場所に分校(名古屋分校、豊川分校のちに岡崎分校、安城分校のちに廃止)が設置され、のちに大学本部が新設された。この大学本部と後期課程をどこに設置すべきかという問題(いわゆる「学大問題」)や、1966(昭和41)年の愛知教育大学教育学部への名称変更等を乗り越え、1970(昭和45)年に刈谷市井ケ谷地区への統合移転を果たした。
刈谷市へ統合移転後も、養護教諭養成課程や特別教科教員養成課程等の設置、大学院(教育学研究科)の設置、総合科学課程の設置等、2004(平成16)年には国立大学法人化への対応等、教員養成系大学を取り巻く厳しい荒波に翻弄されながらも、必死に対応し教員養成教育の充実に尽力した姿が浮かびあがってくる。
第一師範学校の流れ
愛知県養成学校の創設 / 愛知県師範学校と改称 / 愛知県尋常師範学校と改称 / 愛知県師範学校と改称 / 愛知県第一師範学校の設置 / 愛知県女子師範学校の設置 / 官立愛知第一師範学校に移管
1873(明治6)年愛知県養成学校の創設
1872(明治5)年「学制」頒布により、全国に近代的な小学校が設置されることになった。愛知県では1873(明治6)年に小学校の設置に着手するとともに、この新しい小学校に大量に必要となる「教員」を養成すべく、同年12月に「愛知県養成学校」(名古屋久屋町1丁目)が、1874(明治7)年には岡崎の旧額田県庁跡に「養成学校別校」が設置された。 |
 愛知県養成学校卒業者名簿 愛知県養成学校以降の卒業者名が記載されている  愛知県養成学校の沿革 愛知県養成学校創設時の教員は東京師範学校の卒業生が担当し、新しい授業法等が教えられた
クリックして拡大 |
1876(明治9)年愛知県師範学校と改称
1876(明治9)年、愛知県養成学校は「愛知県師範学校」と改称され、翌年には官立師範学校跡地の名古屋本町1丁目に移転した。愛知県師範学校では初めて校長が置かれることとなり、初代校長に境野熊蔵が就任した。愛知県師範学校には、予科(修業年限1年、定員70名)と本科(修業年限2年、定員200名)が設置された。 |
クリックして拡大 |
1886(明治19)年愛知県尋常師範学校と改称
1885(明治18)年、初代文部大臣に森有礼が就任し、翌年には「師範学校令」において「師範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス 但生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノトス」(第1条)と制定された。1886(明治19)年8月28日、愛知県師範学校は「愛知県尋常師範学校」と改称され、修業年限は4年、定員は200名となった。 |
 愛知県尋常師範学校の正門 1886(明治19)年8月、愛知県師範学校は「愛知県尋常師範学校」と改称された  愛知県尋常師範学校の卒業生たち 愛知県尋常師範学校には、短期間で教員を養成する乙種講習科や、現職教員を対象に研修を行う甲種講習科等が設置された
クリックして拡大 |
1898(明治31)年愛知県師範学校と改称
1897(明治30)年に新たに「師範教育令」が制定され、これにより尋常師範学校は単に師範学校と改称されることになったため、愛知県尋常師範学校は「愛知県師範学校」と改称された。
1899(明治32)年愛知県第一師範学校の設置
1899(明治32)年、「愛知県第一師範学校」が設置された。
1907(明治40)年には「師範学校規程」が制定され、本科第一部(修業年限4年)、本科第二部(修業年限1年または2年)、予備科が設置された。
|
 愛知県第一師範学校の正門 明治32年、愛知県師範学校は「愛知県第一師範学校」と改称された  愛知県第一師範学校の教職員(大正7年頃) 明治32年4月に「愛知県第一師範学校規程」が制定され、同年6月には校長に三浦渡世平が就任した。当時の教職員は校長のほか、教諭9名、助教諭3名、訓導14名、嘱託教員7名、合計34名で構成された  新聞部(昭和11年頃) 明治32年12月、名古屋市東芳野町に新校舎が完成?移転、寄宿舎は翌年7月に本校敷地内に完成した。寄宿舎では従来水曜日?休業日だけ外出が許可されていたが、やがて毎日許可されるようになった  角力部(昭和11年頃) 明治33年に愛知県は新たに「愛知県師範学校規則」を制定、また「師範学校講習科規程」が改正され、甲種講習科は愛知県第一師範学校に、乙種講習科は愛知県第一および第二師範学校にそれぞれ設置された  本科第二部の生徒たち(大正7年頃) 明治40年「師範学校規程」が制定されたことにより、愛知県は明治41年に「愛知県師範学校学則」を制定し、愛知県第一師範学校に本科第一部(4年間)、本科第2部(1年または2年)、予備科が設置された  教生室での様子(昭和9年頃) 明治41年「愛知県師範学校学則」によると、本科第一部生の教育実習は第4学年に毎週9時間を課すこととなっており、本科第二部生は教育学に重点を置いたカリキュラムが組まれ、教育実習は毎週8時間が課された  軍事講習の様子(1934(昭和9)年頃) 1937(昭和12)年の日中戦争以後、師範学校における教育や学校行事等に戦時体制色がしだいに強化されていった  愛知県第一師範学校の教職員(昭和13年) 昭和初期の愛知県第一師範学校および附属小学校では、新教育運動の影響を受け、郷土の地理や歴史を出発点とし、当時の経済不況にあえぐ農村の自力更生運動などと関連させた郷土教育が盛んに取り組まれた  運動会(昭和13年) 大正期から昭和初期の郷土教育運動のほかには、愛知県第一師範学校附属小学校の芥子川訓導による生活綴方教育の実践、石上教諭による教育科学運動などが展開され、師範学校生徒の教育?研究に少なかぬ影響を与えた  柔道部(昭和13年) 愛知県第一師範学校で制定された「生徒ニ関スル規程」では厳しい師範学校での生活がうかがえる。たとえば、第1項には「忠君愛国ヲ旨トシ威重以テ己ヲ修メ順良ヲ以テ上ニ奉シ信愛ヲ以テ下ニ接スルハ教員タルモノニアリテハ殊ニ重要トス故ニ生徒ハ専ラ意ヲ茲ニ注ガサルヘカラス」と規程された  角撲部(昭和13年) 愛知県師範学校では全寮制が敷かれ、朝は6時に起床、清掃をしたのち午前?午後の授業を受け、曜日によっては運動や外出、自習時間等を経て、夜9時半に消灯という規則正しい生活を送った  級友たちとともに(昭和13年) 大正期に入ると「師範学校規程」等の改正により、愛知県師範学校では本科第一部の修業年限を5年に延長するとともに、生徒定員も本科第一部?2学級を増設した  級友たちとともに(昭和14年) 「愛知県師範学校学則」によれば、小学校教員の徳操識見の向上を目指して修身?歴史?地理?法制及経済など精神の修養に役立つ学科を重視したのに加え、博物?物理及化学など科学的知識を教える学科目の教授時間数も増加された  級友たちとともに(昭和14年) 大正期、本科第一部生徒には第3学年から毎月4円50銭が支給、本科第二部生徒はすべて私費だったが、大正後期になると本科第一部生?本科第二部生ともに毎月10円が支給された  弁論大会(昭和14年) 明治後期以降、愛知県第一師範学校では四つの学校の記念会、博物?地理?歴史研究や小学校への参観を目的とする修学旅行、水泳訓練等、生徒訓育の面から多様な学校行事が実施された  音楽会(昭和14年) 四つの記念会とは「勅語下賜記念日(10月)」「戦勝記念日(3月)」「戦勝記念日(5月)」「ペスタロッチ記念日(1月中旬)」だった  ペスタロッチー祭(昭和14年) 第1回ペスタロッチ記念会は、明治40年1月12日に開催された。以後、毎年1回ずつ継続され、明治44年の第5回からは講演を教諭だけでなく師範学校生徒も行うようになった。第9回(大正4年)には、のちに附属小学校で活躍した真野常雄も登壇していた  挑籠球部(昭和14年) 昭和6年に「師範学校規程」が改正されたことを受け、愛知県第一師範学校本科第二部の修業年限を2年に延長し、学級数も増やした  図書部(昭和14年) 写真中、背後に置かれている書棚は、現在附属図書館3階の大学史資料室?展示室に現物が展示されている。附属図書館の開館中(平日は17時まで)であれば、誰でも無料で関係資料とともに本学の歴史的変遷を視覚的に楽しむことができます  専攻科(昭和14年) 大正15年4月、愛知県第一師範学校では修業年限1年の「専攻科」を設置し、ほかに愛知県第二師範学校および愛知県女子師範学校にも1学級ずつ設置した。この専攻科の設置等がやがて師範学校を専門学校程度に昇格させる端緒を開いたとされている  愛知県岡崎師範師範学校生との交流会(昭和14年) 愛知県第一師範学校では、昭和15年3月に「卒業者心得」を制定し、同校を巣立つ卒業生に与えたという。「卒業者心得」は卒業後小学校教師になった場合に、守るべき事項を「職務」「時局」「居住」「生活」「交際」「文書」「服飾」の各領域?53項目に区分し教え諭している
クリックして拡大 |
1912(明治45)年愛知県女子師範学校の設置
1912(明治45)年、愛知県第二師範学校に設置されていた女子部を分離し、「愛知県女子師範学校」が西春日井郡に設置された。1915(大正4)年には愛知県立第二高等女学校が併設され、正門には二つの校名が掲げられるようになり、校舎や運動場などの学校施設だけでなく、さまざまな教育活動や学校行事等を共有して過ごした。 |
 愛知県女子師範学校正門 明治33年、愛知県第二師範学校に女子部を設置した。この女子部を同校から分離し、明治45年から愛知県女子師範学校を設置することとなった  女子師範学校の校舎 明治45年、千葉県女子師範学校長だった郷野基厚が校長に着任し、同年3月に「愛知県女子師範学校学則」が制定された  教育実習生(昭和8年頃) 愛知県女子師範学校には、本科第一部(修業年限4年、定員40名)、本科第二部(修業年限1年、定員40名)、第二種講習科(修業年限2年、定員40名)が設置された  正門前で(昭和16年頃) 大正4年、愛知県第二高等女学校が併設され、正門には二つの校名が掲げられた  級友たちとともに 愛知県第二高等女学校とは、学校施設だけでなく、教育活動や学校行事等を共有して過ごした  愛知県女子師範学校の教職員(昭和15年頃) 創設以来、郷土教育が重視されたが、昭和期に入ると一層充実した教育?研究活動が展開され、その成果は『郷土研究紀要』としてまとめられた  愛知県女子師範学校の講堂にて 校訓は「至誠」。「道徳教育即教育の根本信条に立つ故に教育運営は至誠を以て一貫、師弟間の誠実な人格的交流によって純良な校風を樹立する」ことが目指された  教育実習生 附属小学校では、本科一部生は1学期に、本科二部生は2学期に、それぞれ10?11週にわたる実習が課された。各学級には3?4名程度配属され、最初の1週間は訓導の授業を参観し、2週以降は授業実習に入った  御大典式場拝観旅行 昭和13年、愛知県女子師範学校に「修練道場」が設置され、「毎朝神殿ノ間仏間ニ参入シテ拝礼」するなど、戦時体制下における小学校教員としての信念が養われた  耐久遠足 昭和10年代前半における学校行事は、非常時体制色がしだいに強まり、水泳訓練(知多若松海岸で10日間)、耐久遠足(大正8年から瀬戸往復10里、昭和15年からは近郊8里に変更)が実施された  附属春日井小学校尋常科(昭和2年) 愛知県女子師範学校創設時は、榎尋常小学校を代用附属小学校としてスタートした  運動会の様子(昭和12年) 大正12年に附属小学校が創設され、郷土教育に関する教育?研究活動に重点が置かれた  運動会の様子 大正10年に第1回初等教育研究発表会を開催。昭和5年には第1回映画教育研究会を開催し、以後毎年1回ずつ全校を公開し研究会を積み重ねていった  附属小学校創立10周年記念 昭和10年7月には、愛知県女子師範学校附属小学校を中心に、中部日本映画教育研究会が発足した。附属小学校では、映画を学校教育の場に導入し、教育効果を高めるための教育?研究活動に重点を置いていた  附属春日井小学校の教室(昭和12年) 附属春日井小学校は、戦後は「春日井プラン」などの教育実践で全国的に注目されたが、昭和28年に合併され、附属名古屋小学校となった
クリックして拡大 |
1943(昭和18)年官立愛知第一師範学校に移管
1943(昭和18)年に「師範教育令」が改正され、従来道府県立だった師範学校は官立に移管されることになった。同年4月1日、愛知県第一師範学校と愛知県女子師範学校が統合し、官立に移管され、「官立愛知第一師範学校」となった。
第二師範学校の流れ
愛知県第二師範学校の設置 / 愛知県岡崎師範学校と改称 / 官立愛知第二師範学校に移管
1899(明治32)年愛知県第二師範学校の設置
1899(明治32)年、額田郡岡崎町に「愛知県第二師範学校」が設置され、初代校長に太田政徳が就任した。愛知県第二師範学校には本科、簡易科、小学校教員講習科(甲種講習科、乙種講習科、のちに特別講習科が追加等)、女子部が設置された。 |
 第1回卒業生(明治36年3月) 明治32年、愛知県第二師範学校に女子部が設置された。当時、愛知県内で唯一、女性教員を養成する拠点だった  第1回甲種講習科卒業生(明治34年7月) 愛知県第二師範学校には小学校教員講習科(甲種講習科、乙種講習科、のちに特別講習科等)が設置された  第1回甲種講習科(女子)卒業生(明治40年3月) 甲種講習科は、県内の現職の小学校教員を対象として、資質の向上を目的とした現職研修を実施した  本科第1回卒業生(明治37年) 明治37年3月、愛知県第二師範学校本科第一部第1回の卒業生(39人)が輩出され、県内の小学校教員として着任した  本科第二部第1回卒業生(明治42年) 卒業生は県内の小学校教員となり、「仲々良好の成績をあげ優良なる地位と父兄の信頼とを得、其の校に於ける重鎮となって居る……山間の僻地とあって実に1?2度しか帰省出来ぬところにいて真面目に斯道のために忠実己を忘れて尽くす人」もあったという  創立10周年記念時の正門(明治42年) 明治42年12月12日、愛知県第二師範学校は創立10周年という節目を迎え、校門には記念アーチが掲げられた。また翌明治43年3月には、創立10周年を記念する同窓会誌「校報」特集号が刊行された  第二師範学校の校舎 創立10周年を記念し、初代附属小学校主事だった蟹江虎五郎の回顧によれば、明治40年3月までに卒業した者のうち、簡易科は78人中3人、本科(男性)は120人中27人、同(女性)は146人中17人が卒業当時から現在まで教職に勤続していたという  愛知県第二師範学校から女子部が分離した日に撮影(明治45年) 明治45年6月8日、愛知県第二師範学校から女子部を分離し、愛知県女子師範学校として開校した。女子部の「温旧会」は、愛知県女子師範学校の同窓会にも引き継がれ、「温旧会報」という名称の機関誌が発行された
クリックして拡大 |
1923(大正12)年愛知県岡崎師範学校と改称
1923(大正12)年に「愛知県師範学校学則」が改正され、愛知県第二師範学校は「愛知県岡崎師範学校」と改称された。翌年10月には創立25周年記念式典が挙行された。 |
 愛知県岡崎師範学校の正門 大正12年、愛知県第二師範学校は愛知県岡崎師範学校に校名を変更した  愛知県岡崎師範学校本科第一部の生徒たち(大正13年頃) 当時、「東海道一の師範であるとの誇り」を教員も生徒たちも感じていたという  音楽教室での授業風景(大正13年頃) 大正10年代にかけて運動場や寄宿舎などが新築され、施設設備が充実していった  ストーブを囲んで 本科1学年あたりの生徒数は約30名?40名(大正期は約80名)で少人数の指導体制だった  愛知県岡崎師範学校の校舎(昭和12年) 昭和5年2月11日、愛知県岡崎師範学校は創立30周年記念式典を挙行した。創立以来の卒業生は約3,200名となった(男性:2,300名、女性:600名)  愛知県岡崎師範学校の教職員(昭和12年) 大正期に全国的に注目を集めた生活教育は、昭和期に入ると生活単元の設置と教育課程の再編成による「生活課程」の設置へと発展し、昭和10年には『生活教育の実践』(東洋図書)として教育?研究成果がまとめられた  歴史教室(昭和12年) 第一次世界大戦後の世界経済不況の波により、学校の統廃合、学級の整理、教員の退職問題、師範学校教員養成の制限とつながっていき、昭和5年頃から愛知県岡崎師範学校の廃校問題が起きた  物理化学教室(昭和12年) 昭和5年11月10日、「岡崎師範廃校問題」が新聞に掲載され、岡崎市では「岡崎師範学校廃校絶対反対尽力タノム」と県議会議員や市町村長等に電報を発した  音楽教室(昭和12年) 明治期から大正期にかけて、愛知県第二師範学校では「校報」が発刊されていたが、経費の都合により大正5年頃に廃刊となった。昭和6年7月、資金を調達し温旧会機関誌「たつき」を創刊した  講義室(昭和12年) 昭和4年12月には、愛知県岡崎師範学校学友会編集による「師友」が創刊され、教職員や在学生徒の論文、作品、学友会の活動等が掲載された  体育授業の様子(昭和12年) 昭和5年10月13日には愛知県岡崎師範学校校旗が制定され、同年10月30日には愛知県岡崎師範学校に奉安殿が設置された  手工授業の様子(昭和12年) 昭和8年には、昭和御大典記念事業として「御大典記念郷土室」が設置された。文部省からの資金をもとに、歴史部と地理部とに分かれ、国宝建造物の撮影や地質模型の作成などに取り組まれた  理科授業の様子(昭和12年) 昭和16年の第二次世界大戦後、教育者の育成により一層力が注がれるようになり、県立師範学校の官立専門学校への昇格が促進された  通学生の様子(昭和12年) 師範学校では学科の教育のほか、とくに生活指導や訓育に重点が置かれていた。師範学校は全寮制であり、寄宿舎は生徒の生活の基盤となった  通学生の様子(昭和12年) 学校全体としては各学級に学級監督(主任)を設け、寄宿舎では従来通り舎監による指導、通学生については専任通学生係を設け、生徒の訓育にあたった  通学生の様子(昭和12年) 師範学校の授業は、始業が8:10、終業が14:50、1日あたり6時間授業で、土曜日は4時間授業だった。教室は学科別で、専攻科だけ専攻科教室が設けられていた  食堂 大正13年2月2日、午前5時20分頃、「朝飯を炊きつつありし炊夫の過失より、竈場から出火し、食道洗面所浴場を鳥有に帰せしめた」という  軍事講習(昭和12年) 教練は師範学校の教育において重視されていたが、大正14年の「陸軍現役将校学校配属令」実施により、師範学校にも配属将校が配置され、学校教練が強化されていった  軍事講習(昭和12年) 昭和期に入ると、師範学校における教練は、配属将校や予備役歩兵特務曹長が担当し、夏季休暇中に1週間から3週間にわたって軍事講習が実施された  軍事講習(昭和12年) 昭和13年の「国家総動員法」以降、師範学校の教育や学校行事もしだいに戦時体制化の教育として再編成されていき、昭和14年には修養道場「敬愛堂」が完成した  競技部(昭和12年) 昭和16年4月、愛知県岡崎師範学校に学校報国団が結成され、「報国団規則」が制定された。その目的は「教学ノ本旨ニ則リ本校ノ使命ニ鑑ミ全校一致心身ヲ修練シ教育報国ノ気魄ヲ涵養シ国士的教育者ノ錬成」とされた  籠球部(昭和12年) 昭和14年、愛知県は「愛知県尋常小学校本科正教員臨時養成所規程」を制定し、これを受けて愛知県岡崎師範学校に臨時養成所が附設された。養成期間は半年間で、定位は40名、卒業後の奉職義務は1年間、尋常小学校本科正教員の養成が目的とされた  修学旅行(昭和12年) 昭和20年には、官立に移管した愛知第二師範学校女子部に愛知県第二師範養護訓導養成所が附設され、修業年限2年、定員は100名、高等女学校卒業程度の者を入学させ、養護訓導(現在:保健室の先生=養護教諭)の養成事業が進められた
クリックして拡大 |
1943(昭和18)年官立愛知第二師範学校に移管
1943(昭和18)年に「師範教育令」が改正され、従来道府県立だった師範学校は官立に移管されることになった。同年4月1日、愛知県第二師範学校は官立に移管され、「官立愛知第二師範学校」となった。 |
 官立愛知第二師範学校に移管 昭和18年4月1日、愛知県岡崎師範学校は官立に移管され、官立愛知第二師範学校となった。同校には男子部だけで女子部が設置されなかったことから、愛知県岡崎師範学校の同窓会を中心に女子部設置運動が展開され、昭和19年4月1日に女子部が設置された
クリックして拡大 |
青年師範学校の流れ
愛知県農業補習学校教員養成所の設置 / 愛知県実業教員養成所と改称 / 愛知県立青年学校教員養成所と改称 / 官立愛知青年師範学校に移管
1918(大正7)年愛知県農業補習学校教員養成所の設置
明治後期、勤労青少年の教育機関であった実業補習学校が急速に普及し、その教員を養成するため、1918(大正7)年に「愛知県農業補習学校教員養成所規程」が制定され、愛知県立農林学校内(安城)に「愛知県農業補習学校教員養成所」が設置された。 |
クリックして拡大 |
1921(大正10)年愛知県実業教員養成所と改称
1921(大正10)年、愛知県農業補習学校教員養成所は「愛知県実業教員養成所」と改称され、所長に大森謹平が就任した。修業年限は1年(翌年から2年に延長)で、「農業補習学校教員タル者ニ須要ナル智識技能」を学び、とくに「農業」の理論と教授法の修得に重点が置かれた。 |
 愛知県実業教員養成所の教職員と生徒たち(昭和6年頃) 大正10年、愛知県実業教員養成所と改称され、所長に大森謹平が就任した  授業の様子(昭和6年頃) 愛知県実業教員養成所では、「農業補習学校教員タル者ニ須要ナル智識技能」を学び、とくに農業の理論と教授法に重点が置かれた  授業の様子(昭和6年頃) 大正10年4月に「愛知県実業教員養成所学則」が制定され、修業年限は1年、学科目は修身、教育、農業、法制及経済、国語及漢文、英語(随意)、体操と定められた  授業の様子(昭和6年頃) 大正11年2月、愛知県実業教員養成所の附属の形式をもつ愛知県農業補習学校が併設された。同校には、本科、別科、研究科が設置され、夜間授業も実施された  授業の様子(昭和6年頃) 大正11年3月、「愛知県実業教員養成所学則」が改正され、修業年限が2年に延長され、学科目は修身、教育、国語、数学、化学、農芸物理、土壌肥料、農業土木、園芸、畜産、水産、農業最近、林学等、広範な領域に拡大された  愛知県実業教員養成所の教職員たち(昭和6年頃) 修業年限を2年に延長するまでは、中学校や実業学校等の卒業者を入学させていたが、補習学校教員の資質向上のため、師範学校を卒業し教職に就いている者を入学させることとし、波多岩四郎主任教諭の発案で県下の小学校等を歴訪したという  授業の様子(昭和6年頃) 師範学校卒の現職教員が入学した場合は、在職年数を継続通算し、学資の補助をし、人物考査だけで無試験で入所させた。そのため、当時の生徒の経歴や学歴、年齢も多様で、18歳くらいから25歳までと幅広く、なかには妻子のある生徒も在籍していた  授業の様子(昭和6年頃) 大正13年7月、愛知県実業教員養成所は愛知県立農林学校の隣接地に校舎を新築し、附属の実習地等も完成した
クリックして拡大 |
1935(昭和10)年愛知県立青年学校教員養成所と改称
1935(昭和10)年、愛知県実業教員養成所は「愛知県立青年学校教員養成所」と改称されるとともに、1年課程の臨時養成科(昭和13年?昭和15年)や、女子部(昭和17年)が設置された。戦時中は海軍生活の訓練や刈谷のトヨタ工場等での勤労奉仕に動員されたという。 |
 1930年代の宿泊訓練 昭和10年代は教官は専任が4名、生徒は50名前後だった。「誠至塾」という生徒訓練の施設が設置され、教職員と生徒全員が合宿し、精神訓練?勤労訓練を行った
クリックして拡大 |
1944(昭和19)年官立愛知青年師範学校に移管
1943(昭和18)年に「青年学校教員養成所規程」が改正、翌年には「師範教育令」が改正され、新たに青年師範学校が設置されることになった。愛知県立青年学校教員養成所も、1944(昭和19)年4月に官立に移管され、「官立愛知青年師範学校」となった。 |
 愛知青年師範学校の校旗 昭和19年2月に「師範教育令」が改正され、青年学校教員養成機関は官立の青年師範学校となり、専門学校程度の学校として位置づけられることとなった  教育実習の様子(1940年代) 昭和18年度において青年学校教員養成所は全国に55校であったが、昭和19年度からは青年師範学校として整理され、全国47校が設置された  授業の様子(1940年代) 愛知青年師範学校には、男子については農業科と工業科が設置され、募集人員は農業科が約80名、工業科が約40名だった。さらに女子部が設置され、募集人員は約40名だった
クリックして拡大 |
愛知学芸大学
愛知学芸大学の発足 / 名古屋分校の設置 / 豊川分校の設置 / 安城分校の設置 / 豊川分校から岡崎分校へ / 安城分校の廃止
1949(昭和24)年愛知学芸大学の発足
1949(昭和24)年5月31日、「愛知学芸大学学芸学部」が発足した。愛知学芸大学には、旧師範学校の校地に分校(名古屋分校、豊川分校、安城分校)が設置された。このほかに「大学本部」が新設された。 |
 愛知学芸大学の正門 先に建物の建設を優先したため、開学14年目にしてようやく正門が完成した  愛知学芸大学附属図書館竣工式(昭和38年) 開学以来、暫定的に教室の一部を改造し附属図書館としたが、昭和38年に鉄筋コンクリート造3階建に変わった  愛知学芸大学創設初期の卒業写真(1950年代) 昭和24年5月31日、愛知学芸大学学芸学部が発足した。翌昭和25年7月には「愛知学芸大学学則」が制定された  愛知学芸大学創設初期の卒業写真(1950年代) 愛知学芸大学発足にともない、名古屋分校(前期2年課程、定員720名)、豊川分校(前期2年課程、定員540名)、安城分校(前期2年課程、定員240名)が設置された  愛知学芸大学正門前で(1950年代) 戦後復興やベビーブームにともなう大量の教員需要に対応するため、臨時的措置として2年課程(前期課程)が設置された。昭和26年度の610名をピークとして以後縮小し、昭和36年度に廃止された  愛知学芸大学創設初期の卒業写真(1950年代) 愛知学芸大学発足直後から、「大学本部」と「後期課程」を名古屋あるいは岡崎のどちらに置くべきかという問題(いわゆる「学大問題」)が発生した  演劇部(1950年代) 昭和24年度の入学試験の結果、倍率(志願者/定員)は0.95、定員充足率は0.78、男女比は92:8(男子学生:女子学生)、分校間の比率は名古屋:岡崎:安城=57:35:7だった。当初は一期校だったが、昭和28年度から二期校として入学試験を実施した  映画研究会(1950年代) 昭和26年度、名古屋分校の出身高校ランキングは、①愛知第一師範予科、②愛知、③津島、④松陰、⑤旭丘、⑥尾張、⑦明和、⑧東海、⑨半田、⑩瑞稜、小牧、名古屋西高校だった  心理学研究会(1950年代) 昭和26年度、岡崎分校の出身高校ランキングは、①愛知第二師範予科、②挙母、③西尾、④新城、⑤岩津、豊川、⑥岡崎、⑦刈谷、⑧国府、豊橋東、安城農林、⑨時習館高校だった  児童文化研究会(1950年代) 昭和26年度のクラブ活動について、文化系が27団体(教育、テスト、哲学、英語、社会、歴史、地理、数学、物理、化学、生物、地学、工芸、美術、芳絵、硯友、家政科、音楽、吹奏、図書、弘報、文芸、新聞、児童文化、演劇、英語演劇、映画)だった  蹴球部(1950年代) 昭和26年度のクラブ活動について、体育関係は15団体(陸上、体操、水泳、野球、庭球、籠球、排球、蹴球、ラグビー、送球、卓球、角力、柔道、空手、自動車)だった  野球部(1950年代) 昭和25年度の名古屋分校の調査によれば、55%の学生がアルバイトをしており、主に家庭教師が中心だったという
クリックして拡大 |
1949(昭和24)年名古屋分校の設置
1949(昭和24)年に愛知学芸大学が発足し、戦前の愛知第一師範学校は愛知学芸大学名古屋分校となった。名古屋分校には、前期2年課程が設置され、設置時の定員は720名だった。 |
 名古屋分校校舎(昭和24年以降) 終戦後の教員不足に対応するため、各分校には前期課程(2年課程)が設置され、2級免許状が取得できた  名古屋分校での講義の様子(昭和30年) 愛知学芸大学出身者が、県内の新規採用教員数に占める割合は、昭和35年度にピークを迎え、小学校は約90%だった  名古屋分校の教職員(昭和45年) 名古屋地区への後期課程?大学本部の誘致運動が展開されたが、昭和45年度末をもって刈谷市へ統合移転された
クリックして拡大 |
1949(昭和24)年豊川分校の設置
1949(昭和24)年に愛知学芸大学が発足し、戦前の愛知第二師範学校は愛知学芸大学豊川分校となった。豊川分校には、前期2年課程が設置され、設置時の定員は540名だった。 |
クリックして拡大 |
1949(昭和24)年安城分校の設置
1949(昭和24)年に愛知学芸大学が発足し、戦前の愛知青年師範学校は愛知学芸大学安城分校となった。安城分校には、前期2年課程が設置され、設置時の定員は240名だった。
|
 愛知学芸大学安城分校正門 昭和24年、愛知学芸大学発足とともに、愛知青年師範学校は愛知学芸大学安城分校となった(前期2年課程、定員240名、昭和27年3月に廃止)
クリックして拡大 |
1950(昭和25)年豊川分校から岡崎分校へ
1950(昭和25)年4月、愛知学芸大学豊川分校は同岡崎分校と改称された。このほか、大学本部と後期2年課程が岡崎市明大寺地区に設置され、新しい校舎等が建設された。
|
 大学本部の設置 大学本部が置かれた岡崎市明大寺地区内の建物(建物は当時「本館」と呼ばれた人文棟)  大学本部の新設(昭和25年頃) 候補地として、岡崎?名古屋?春日井?大府?安城?豊川などがあがったが、最終的に岡崎市明大寺地区(現在:名鉄東岡崎駅南側)に置かれた
クリックして拡大 |
1952(昭和27)年安城分校の廃止
1952(昭和27)年3月、大学本部への統合により安城分校が廃止された。
愛知教育大学
愛知教育大学に名称変更 / 刈谷市井ケ谷地区への統合移転 / 大学院教育学研究科の設置 / 総合科学課程の設置 / 教員養成課程の再編 / 国立大学法人愛知教育大学の発足
1966(昭和41)年愛知教育大学に名称変更
1965(昭和40)年、東北大学教育学部から教員養成課程が分離独立し、宮城教育大学が発足した。翌1966(昭和41)年には「国立学校設置法の一部を改正する法律」および「国立大学の学科及び課程並びに講座及び学科目に関する省令」により、同年4月1日、愛知学芸大学学芸学部は「愛知教育大学教育学部」へと名称が変更された。 |
 「愛知学芸大学新聞」第48号(1965(昭和40)年11月25日付)  愛知学芸大学関係施設配置図 名古屋?春日井?安城?岡崎?豊川など県内各地に関係施設が整備されていた
クリックして拡大 |
1970(昭和45)年刈谷市井ケ谷地区への統合移転
統合移転先として、長久手、大高、大府、猿投、三好、豊田、刈谷等が候補にあがったが、最終的には1966(昭和41)年7月14日に開催された臨時教授会において、「本学の統合の適地は……刈谷市井ケ谷地区を第一候補とする結論に到達」した。
1971(昭和46)年3月16日、関係者約400名を招待し統合記念式典が挙行された。
|
 統合起工祝賀会 昭和43年3月14日、統合記念式典が開催された(写真は祝賀会で挨拶をする第4代?伊藤郷平学長)  工事中の第一人文棟?第一共通棟 大学建設にともない、井ケ谷古窯跡群(刈谷市指定史的)の破壊が免れないことが判明し、史学教室が発掘調査を実施した  基礎工事中の自然科学棟、完成前の第一共通棟、第一人文棟 統合移転後、特別教科教員養成課程(理科、数学)が設置され、東海地区における理数系教員養成の拠点となった  記念式典の様子(昭和46年) 昭和46年3月16日、本学関係者等約400名を招待し、統合記念式典が挙行された  新キャンパスの建設が進む 昭和40年の教授会で名古屋分校?岡崎分校を離れて、第三の土地への集結を決議し、翌年には刈谷市井ケ谷地区への統合移転が決定された  新キャンパス内の様子 愛知教育大学生と附属高校生のバス乗車マナーがしだいに問題となってくる  第一共通棟 新しく充実した施設、豊かな自然環境に学生たちは喜んだが、やがて田んぼの真ん中の大学、通勤?通学が不便になったと不満を漏らしはじめた
クリックして拡大 |
1978(昭和53)年大学院教育学研究科の設置
刈谷市へ統合移転後は、幼稚園教員養成課程、特別教科教員養成課程(理科、数学、書道)、肢体不自由児教育教員養成課程、情緒障害教育教員養成課程、特殊教育特別専攻科など、多様な教員養成課程等を一体的に保持し東海地区における教員養成センターとしての機能強化が進められた。
このほか、教育専攻科(教育専攻、数学専攻、理科専攻)が設置されていたが、1978(昭和53)年に大学院教育学研究科修士課程設置にともない、順次廃止された。
|
 1980年代の美術実習棟?音楽棟 1980年代に入ると、第二共通棟や第二体育館などの教育施設だけでなく、大学会館や公務員宿舎の増築など福利厚生面の充実化が進められた  1980年代の第一福利施設 最寄駅から遠いことから、自家用車で通学する学生が多いことが本学の特徴の一つ。刈谷市へ移転直後から、学内の交通事故や自家用車の交通ルールが問題となった  1980年代の第二福利施設?保健管理センター 第二福利施設2階のバルコニーは、夏の数日間限定でビアガーデンとなり、多くの教職員?学生たちの喉を潤したという  1980年代の合格発表 昭和61年に講堂が完成するまで、入学試験の合格発表は第一共通棟で行われていた  1980年代の卒業式 昭和61年に講堂が完成するまで、入学式や卒業式は第一体育館で行われていた  1980年代の愛教大祭 昭和45年、刈谷市井ケ谷地区に移転後、第1回愛教大祭が開催された。約1週間にわたり、学外講師による講演会や仮装大会、子どもまつり、スポーツ大会などがまとまって開催されていた  1980年代の講堂 昭和61年3月21日に講堂の竣工式を挙行、以後入学式や卒業式の会場となった
クリックして拡大 |
1987(昭和62)年総合科学課程の設置
将来の教員需給変動を見通し学校教員以外の分野で活躍できる人材養成を目指し、小学校教員養成課程から学生定員395名を移動し、1987(昭和62)年に総合科学課程が設置され、翌年には6コース(13選修)が整備された。 |
 『愛知教育大学総合科学課程の歩み』 昭和62年、教員免許状取得を卒業要件とはしない総合科学課程が設置された  1990年代の愛教大祭 1970年代の愛教大祭には見られた学外著名人による講演会や自主的なゼミナール活動はしだいに縮小されていった  1990年代の附属図書館前 平成3年からOPAC(蔵書検索システム)の学内ネットワーク上での提供を開始、平成8年からは学外者の利用を開放した
クリックして拡大 |
2000(平成12)年教員養成課程の再編
2000(平成12)年、教員養成課程の入学定員を640名から480名に削減するとともに、初等教育教員養成課程、中等教育教員養成課程、障害児教育教員養成課程、養護教諭養成課程の4課程に再編した。あわせて、総合科学課程を学芸4課程(国際理解教育課程、生涯教育課程、情報教育課程、環境教育課程)に改組した。文部科学省が「国立の教員養成系大学?学部の在り方に関する懇談会」を発足させたのは同年8月だった。 |
クリックして拡大 |
2004(平成16)年国立大学法人愛知教育大学の発足
2004(平成16)年、国立大学法人法施行に伴い、「国立大学法人愛知教育大学」が発足した。 |
 教育交流館(旧教育総合棟/情報処理センター)、AUEスクエア 平成28年改修  教育交流館(旧教育総合棟/情報処理センター) ラーニングコモンズ  AUEセミナーハウス (旧学生合宿所) 平成30年建替  次世代教育イノベーション棟(旧ボイラー室) 平成31年改修  次世代教育イノベーション棟(旧ボイラー室) AUEカキツバタホール
クリックして拡大 |
附属学校園のあゆみ
附属幼稚園 / 附属名古屋小学校 / 附属岡崎小学校 / 附属名古屋中学校 / 附属岡崎中学校 / 附属高等学校 / 附属特別支援学校
?附属幼稚園
1925(大正14)年、愛知県女子師範学校附属幼稚園が創設された。戦時中は一時閉園されたが、1946(昭和21)年に官立愛知第一師範学校女子部附属幼稚園として再開された。
1949(昭和24)年に愛知学芸大学附属幼稚園と改称、1953(昭和28)年には現在地に新園舎が完成した。その後、愛知学芸大学附属幼稚園、愛知教育大学附属幼稚園と改称した。
一人ひとりを大切にする保育環境のなかで、自然や社会とかかわりながら生きていくための基礎的な力を育み、人格形成の基礎を培う幼児教育を追究し、保育者を目指す学生たちへの指導をはじめ、公開保育や大学との共同研究、地域の研修会等を実施している。
|
 終戦直後の集合写真(1946(昭和21)年頃) 附属幼稚園は、1925(大正14)年に愛知県女子師範学校附属幼稚園として創設された  発表会の様子(1946(昭和21)年頃) 戦時中は一時閉園。1946(昭和21)年に愛知第一師範学校の校舎の一部を借りて復活開園した  第20回全国幼稚園施設研究大会(1971(昭和46)年) 1951(昭和26)年4月、愛知学芸大学附属幼稚園と改称、1953(昭和28)年には現在地に新園舎が完成した  運動会の様子(1971(昭和46)年頃) 1966(昭和41)年4月、愛知教育大学附属幼稚園と改称した。  第20回全国幼稚園施設研究大会(1971(昭和46)年) 戦中および終戦直後の混乱期を経て、1950年代後半から本格的に研究活動が盛んに行われた  園舎竣工?創立50周年記念式典 1976(昭和51)年9月28日、創立50周年記念式典を挙行した  愛知学芸大学附属幼稚園の教職員 創設当初は附属小学校兼主事1名、教官2名による2学級編成(1学級あたり25名、合計50名)だったが、戦後はしだいに入園者数が増加し、昭和48年度から3年保育課程が新設され、定員は合計120名となった  昭和50年頃の園舎 当時の園舎は「木造建であるが、開放的で園児がのびのびと遊べるよい構造である。また園庭の樹木、芝生もりっぱで、緑が多く大都市の幼稚園としては、うらやましいほどよい環境にある」と評価された  昭和50年頃の園庭 園庭の先には愛知学芸大学名古屋分校の校舎が見える
クリックして拡大
|
?附属名古屋小学校
1875(明治8)年、愛知県養成学校附属小学校が創設された。大正期から昭和初期にかけて、郷土教育に関する教育?研究が盛んに行われ、その教育実践や研究活動は全国的に注目された。1923(大正12)年には愛知県女子師範学校附属小学校が設置された。
1953(昭和28)年、これらの小学校を合併し、愛知学芸大学附属名古屋小学校と改称した。1961(昭和36)年に校歌「ぼくもわたしも」を制定、1974(昭和49)年には開学百年祭を挙行した。隣接する附属幼稚園?附属名古屋中学校と連携した教育活動や、大学教員との共同研究等、先進的な教育?研究活動を推進している。
|
 愛知県第一師範学校附属小学校時代の校舎(1926(昭和元)年頃) 1875(明治8)年7月、愛知県養成学校附属小学校が創設された(名古屋久屋町)  愛知県第一師範学校附属小学校の教職員(1926(昭和元)年頃) 大正期から昭和初期にかけて郷土教育に関する教育?研究が盛んに行われ、充実した施設設備、各種学校行事の実施、研究成果物の出版等、幅広い成果をあげ注目を集めた  愛知学芸大学附属名古屋小学校時代の校舎(1955(昭和30)年頃) 1952(昭和27)年に現在の名古屋市東区大幸町に移転、翌年には附属春日井小学校を合併し、愛知学芸大学附属名古屋小学校と改称した  1970年代の授業風景 AV室で、当時最先端の情報機器を用いた学習風景  1970年代の授業風景 1974(昭和49)年11月、開学百年祭を挙行した  1990年代の校舎全景 「みんながわくわく学べる学校」の実現を目指し、隣接する附属幼稚園?附属名古屋中学校と連携した教育?研究活動を推進している
クリックして拡大
|
?附属岡崎小学校
1901(明治34)年、愛知県第二師範学校附属小学校が創設された。1923(大正12)年には愛知県岡崎師範学校附属小学校と改称、翌年には文集『ひばり』を創刊した。
1951(昭和26)年に愛知学芸大学附属岡崎小学校、1966(昭和41)年に愛知教育大学附属岡崎小学校と改称した。2001(平成13)年には創立100周年記念式典を挙行した。
1948(昭和23)年に第1回生活教育研究協議会を開催し、子どもが主役の学校、子どもたちの生き生きとした姿、仲間とかかわり合う生活をとおして自らの学びを深めていく姿を追究している。
|
 終戦直後の校舎全景(昭和26年頃) 明治34年4月、愛知県第二師範学校附属小学校が開校した  戦時中の卒業写真 大正12年、愛知県岡崎師範学校附属小学校と改称。生活教育に関する研究成果として『体験生活深化の真教育』(大正15年)や『生活教育の実践』(昭和10年)等を出版した  学校議会 昭和26年4月1日、愛知学芸大学の発足にともない、愛知学芸大学附属岡崎小学校と改称された。同年11月には岡崎市伊賀町愛宕山に移転した  1950年代の在校生 昭和32年4月、校則第22条に児童の服装に関する規定を設け、制服が制定された。写真は、制服が制定される前に撮影された集合写真と思われ、制服と私服の児童が混在している  1950年代の校舎 昭和39年1月、新校舎が竣工し待望の理科室、音楽室、家庭科室、特殊学級教室、体育館等が整備された。学芸会は新しく広々とした体育館で開催された  北庭で(昭和35年頃) 昭和36年2月、校訓「本氣デアレ キマリヨクセヨ ヤッカイニナルナ タメニナルコトヲセヨ」が刻まれた校訓碑が北庭に建立された  生活教育研究協議会 昭和23年11月、第1回生活教育研究協議会を開催し、『生活教育研究』第1集を刊行した  正門(昭和35年頃) 昭和37年から昭和42年まで特殊学級を開設し、附属養護学校の母体となった  グラウンドにて(昭和55年頃) 昭和41年4月、愛知教育大学附属岡崎小学校と改称した  1980年代の校舎全景 昭和55年にあおいホール、音楽室、理科室等の新館が竣工、昭和56年度はロータリー造成とブロンズ像の設置、昭和58年には新校舎(普通教室、給食室等)が竣工した。グランドを挟んで右側の校舎は附属養護学校
クリックして拡大
|
?附属名古屋中学校
1947(昭和22)年、愛知第一師範学校男子部附属中学校(名古屋市東区)と同女子部附属中学校(春日井市)が創設された。翌年4月に、これらの学校を合併し、愛知第一師範学校附属中学校と改称した。
1951(昭和26)年に愛知学芸大学附属名古屋中学校、1966(昭和41)年には愛知教育大学附属名古屋中学校と改称した。1950(昭和25)年に第1回教育研究発表会を開催し、1953(昭和28)年には研究紀要『教育実践』第1集を発行した。「行事を核にした教育活動」に重点的に取り組んでおり、集団とのかかわりをとおして、生徒各自が個性を発揮しながらお互いの価値観を理解?共有し合うことを目指している。
|
 愛知学芸大学附属名古屋中学校時代の正門(1954(昭和29)年頃) 1947(昭和22)年4月、愛知第一師範学校男子部附属中学校(名古屋市)および同女子部附属中学校(春日井市)が創設された  友人たちとともに1955(昭和30)年頃) 1951(昭和26)年4月、愛知学芸大学附属名古屋中学校と改称、1954(昭和29)年には現在の名古屋市東区大幸町に移転した  1960年代の校舎全景 1950(昭和25)年6月に第1回新教育研究発表会が開催され、1953(昭和28)年には『教育実践』第1集が刊行された  1960年代の授業風景(1967(昭和42)年頃) 1960年代は共同研究体制強化、新しい教育目標、校章、校旗、校歌の制定など大きな改革が続いた  合唱祭(2007(平成19)年) 附属名古屋中学校では、クラスマッチや宿泊行事等の学校行事が教育活動の核とされた
クリックして拡大
|
?附属岡崎中学校
1947(昭和22)年、愛知第二師範学校附属岡崎中学校が創設された。1949(昭和24)年に愛知学芸大学附属岡崎中学校と改称、1953(昭和28)年には附属安城中学校を統合した。1966(昭和41)年に愛知教育大学附属岡崎中学校と改称され、現在にいたる。
1949(昭和24)年に第1回生活教育研究協議会が開催され、『生活教育研究』第1集が刊行。主体的な学びを引き出す問題解決的学習過程において独自性を発揮しながら追究し、他者とともに新たな価値を生み出す子どもの育成を目指した授業に取り組んでいる。
|
 愛知学芸大学附属岡崎中学校時代の校舎(昭和27年頃) 昭和22年4月、愛知第二師範学校附属中学校が創設された  卒業写真(昭和27年頃) 昭和24年5月には、愛知学芸大学附属中学校と改称された。当時は岡崎市六供町に校舎があった  Students Association(昭和28年頃) 昭和28年には附属安城中学校を統合、昭和31年には現在地(岡崎市明大寺町)に移転した  モータークラブ(昭和29年頃) 昭和39年には特殊学級を開設し、昭和42年の附属養護学校の母体となった  完成した育朋館(昭和31年度頃) 昭和31年12月13日、待望の体育館兼講堂=育朋館が完成し、研究発表会等の多人数を収容できる施設が整備された。「互いの切磋琢磨によって朋(とも)を育てよう」という意味が込められた  明大寺地区の校舎全景 昭和36年7月、木造平屋建てだった校舎(旧三島小学校)の取り壊しが始まった。新校舎は翌昭和37年2月に普通教室等が完成。鉄筋3階建、ガス暖房完備、五つの普通教室が1階から3階まで並び、南側には廊下が配置された  生活教育研究協議会 第1回生活教育研究協議会は、昭和24年11月に開催され、『生活教育研究』第1集が刊行された  創立50周年記念式典 平成9年11月9日、育朋館において創立50周年記念式典?祝賀会が開催された
クリックして拡大
|
?附属高等学校
1973(昭和48)年、愛知教育大学附属高等学校が創設された。創設当初は、愛知教育大学の建物の一部を借りて授業が開始された。1975(昭和50)年には「すべて借り物の生活の中で、何か我々自身のより所になるもの、それを我々の手で創りあげようと考え」附高体操が創作され、翌年には「学校づくりの新しいあり方を探る」をメインテーマに第1回高等教育シンポジウムが開催された。 |
 第Ⅰ期工事竣工記念式典(昭和49年10月8日) 昭和48年4月に開校したが、校舎は愛知教育大学の一部を借りて授業を開始した  校舎全景(昭和51年頃) 昭和49年に新校舎の一部が完成し移転を開始、翌年3月にようやく新校舎が完成した  知立駅前、名鉄バスに乗り込む学生?生徒たち 名鉄知立駅からバスに乗って通学する高校生の乗車マナーが問題となり、改善に向けた取り組みが話し合われた  大学前、バスから降りて歩く高校生たち 愛知教育大学に隣接する環境を生かし、大学との連携による教育?研究活動が進められた  完成したばかりの校内にて 創設時(昭和48年4月)は隣接する愛知教育大学の施設を借りてスタートし、翌昭和49年度末にようやく校舎が完成し、新しい施設での高校生活がはじまった  昭和48年度の入学式 附属高校創設時は、愛知教育大学の体育館で入学式が行われた  昭和48年度の入学式 制服がまだ制定されていないため、入学式には卒業した中学校の制服で入学式に臨んだ。制服が制定されたのは、半年後の10月のことだった  高校教育シンポジウム 昭和51年1月、第1回高校教育シンポジウムが「学校づくりの新しいあり方を探る」をメインテーマに開催された  建国大学校師範大学附属高等学校との交流 昭和63年3月、第1回韓国修学旅行を実施、日韓合同合唱等を通じて交流会を継続している  附高体操(昭和50年頃) 「すべて借り物の生活の中で、何か我々自身のより所になるもの、それを我々の手で創りあげようと考え」附高体操が創作された  創立10周年式典 昭和57年11月5日、創立10周年記念式典が挙行された  創立30周年を記念した30キロハイク(平成14年頃) 創立30周年を記念して、30キロハイクを開催した
クリックして拡大
|
?附属特別支援学校
1960年代、愛知学芸大学附属岡崎小学校と同附属岡崎中学校に特殊学級が設置された。これらの学級における教育?研究活動を引き継ぎ、1967(昭和42)年に愛知教育大学附属養護学校が開校した。同年には父母教師会が結成、第1回特殊教育研究協議会を開催し『研究紀要』第1集が刊行された。
1972(昭和47)年には学校文集『くすの木』が創刊、1978(昭和53)年には「しあわせの門碑」が完成、1980(昭和55)年には附養文化祭が開催された。
|
 附属養護学校開校式 昭和42年11月21日、児童?生徒、保護者、教職員等約170名が参加し、開校記念式が挙行された  創設期の校舎 全国で8校目の国立大学附属養護学校として、障害児教育?研究の拠点となった  「卒業生父母の会」の様子 昭和43年から、卒業生の保護者と現?旧教職員が集い、卒業生の予後指導を行うことを目的にはじめられた  登下校の様子 昭和43年8月からスクールバスの運転が開始された  特殊教育研究協議会 特殊教育研究協議会は、昭和43年の創設以来、毎年積み重ねられている。同年には『研究紀要』第1集が刊行された  創立20周年記念(昭和61年度) 昭和42年に開校後、昭和44年度に新校舎が竣工、昭和51年度は体育館、、昭和53年度は飼育舎、昭和56年度には附属岡崎小学校との境界フェンスを撤去、昭和57年度は動物園が開設されるなど、施設の整備が進められた  しあわせの門(この門の向こうにしあわせの道がある) しあわせの門碑は昭和53年に設置、創立50周年に改修された
クリックして拡大
|